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川越電気鉄道  訪問日 2007/11/23 単独 自転車 カメラ:Panasonic FX01

かつて埼玉県川越市とさいたま市(旧大宮市)を結ぶ路面電車があった。
軌道が敷設されたのは明治39年(1906)4月16日、東京中野の鉄道大隊が実地演習として工事を手掛け、3ヶ月間で竣工した。
路線は川越久保町より、現在の国道16号ならびに県道2号さいたま春日部線にほぼ沿って大宮駅西口までの約12.9km。
停車場は全部で14。軌間は東京市電と同じ1372mmで車両は東京市電からの払下げを使用していた。
川越大宮間の所要時間は45分で、沿線の人々は「チンチン電車」と親しみを込めて呼んだそうだ。
「チンチン電車」の始発は5時30分、終電は20時20分で、一日に往復30回の電車が運行されていた。

経営主体は武蔵水電(大正3年)、西武鉄道(大正11年)と変わっていくが、昭和15年7月22日に国鉄川越線が開通。ついに昭和15年(1940)12月24日に開業以来34年間の歴史を閉じることになったのである。

2007年11月23日の勤労感謝の日、私は「廃探倶楽部」のレポート第一弾として、この川越電気鉄道を選んだ。
私が生まれて暮らしてきた大宮という身近な街にある廃線跡、これこそレポート第一弾としてふさわしいだろう。
祝日の早朝、この日は日本列島上空にマイナス40度の寒気が入り込み、吐く息が白くなるほど。風も強くて自転車を漕ぐのは大変そうだが、川越電気鉄道の跡を辿るべく川越久保町に向けて出発した。
開通から101年、廃止後67年、果たして痕跡はあるのか?
こちらが路線図
クリックで拡大地図表示

停車場は、
川越久保町(かわごえくぼまち)
成田山前(なりたさんまえ)
二ノ関(にのせき)
沼端(ぬまばた)
黒須(くろす)
芝地(しばち)
高木(たかぎ)
西合土(にしごうど)
五味貝戸(ごみかいど)
内野(うちの)
並木(なみき)
大成(おおなり)
工場前(こうじょうまえ)
大宮(おおみや)
川越久保町駅跡には川越電気鉄道についての案内板が立っていた。

現在は東京電力川越支社と中央公民館が建っている場所だ。

案内板にも書いてあるとおり、川越久保町はループ線になっていて、車両の方向転換が行われていた。
撮影Noと方向
路線図
地図「1」から撮影

現在の東京電力のビルがあるところに、川越久保町の駅舎が建っていた。
駅舎は昭和40年代まで残っていたらしい。

写真にマウスを合わせると線路方向を表示します。
地図「2」から撮影

車が通るように作られた道ならば直角に交わることが多いが、この道は元々が軌道なので、ゆるやかなカーブを描いている。

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地図「3」から撮影

車庫があった場所
今では中央公民館の広場になっている。
地図「4」から撮影

いかにも軌道といったカーブの名残が見て取れる。

地図「5」から撮影

川越久保町駅を発車した電車は大宮方面へと向かう。
右の白い東電の建物の位置に駅舎とホームがあった。

また、案内板によると右方向へ引込線(待避線?)があったようだ。

写真にマウスを合わせると線路方向を表示します。
地図「6」から撮影

電車は先の交差点を左に曲がり、大宮へと向かう。

先の交差点を曲がるところも民家の敷地の角は直角ではなく、丸くなっている。

写真にマウスを合わせると線路方向を表示します。
地図「7」から撮影

こんな感じで車庫があったと思われる。
地図「8」から撮影

ここの民家の敷地の角も直角ではない。
右から来た電車がループ線をぐるりと回って大宮方面へと向かう本線に戻る場所。

写真にマウスを合わせると線路方向を表示します。
地図「9」から撮影

川越久保町を出た電車は、大宮へと向かう。
この先辺りが最初の停車場 成田山前だと思われるが、川越久保町とあまりに近い。
腑に落ちないのは、どう考えて
も川越久保町駅のほうが成田
山別院に近いような気がする。
しかし、現在の地図で判断しているため、そう思えるのであって、実際には川越久保町から成田山別院への道がなかったのかもしれない。

成田山前の次は二ノ関停車場だ。

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地図「10」から撮影

道路が一段と狭くなり、往時の様子を留めていると思われる。
この先の右カーブを曲がると、県道 川越日高線へと合流する。
地図「11」から撮影

県道 川越日高線が見えてきた。

写真にマウスを合わせると線路方向を表示します。
この写真、大宮方面へ向かう川越電気鉄道の車両を撮影した貴重なものである。
撮影は昭和5年(1930)頃とのこと。もう少し前の大正中期との説もある。

実は、この撮影場所が判明した。
それが次の写真だ。

※大宮のむかしといま
  昭和55年 刊行 より

この写真、実はトリミングしてあるようで、実際には横構図らしい。
原版は当然もっと写りも良く、右端には川越久保町駅の横にあった火力発電所の煙突も写っている。
地図「12」より撮影

県道 川越日高線へと合流する直前の場所。
上の写真よりも手前に向かって高くなっているが、盛り土されたのだと思われる。

辺りの様子は当然だが全く変わってしまっているが、道の曲がり具合は同じである。
1930年の撮影としても、今から77年も前のこと。カーブがそのまま残っているだけでも奇跡的だ。

ほとんどが道路との併用軌道とのことだが、上の写真を見ると、この辺りは専用軌道だったように見える。
この後、軌道跡は大きな通りへと合流する。大通りともなると道路改修が何度も行われ、当時の面影は無いに等しい。
しかし、道路改修は必ずしも以前の道を拡張するという形で行われる訳ではない。より直線的に作り直される場合も多いのである。
となると旧道が細い路地となって残されている可能性は高い。
さて、川越電気鉄道の場合はどうだろうか。
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