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川越電気鉄道 .3.
国道16号線を離れた軌道跡は再び在りし日の姿を見せ始めた。
しかし、それは道路となった姿であり、鉄道を思わせる遺構は何一つ出てこない。しかし、これから進む道にそれは存在した。
唯一残された川越電鉄の遺構。それは併用軌道と言う性格から考えると奇跡に近いことだ。
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撮影No.と方向
地図「1」から撮影

沼端停留所を過ぎた軌道跡はさらに右に折れて黒須停留所へと向かう。
黒須停留所はこのすぐ先にあったと思われる。
そこを過ぎると待っているのは荒川本流だ。

写真にマウスを合わせると線路方向を表示します。
ついに橋台跡を発見!

今まで何の遺構も見られなかった川越電鉄廃線跡。
川越久保町駅跡からずっと辿ってきたのだが、それは道路へと姿を変えてしまった幻を追ってきたに過ぎなかった。
しかし、ついに幻が現実だったと知る遺構があらわれた。
廃止後67年の時を飛び越えて、21世紀に暮らす私たちの前に現れた、古いレンガ積みの橋台。
それは本当に狭い用水を跨ぐ場所に残っていた。

風化し色あせたレンガが67年という時の流れを教えてくれるようだ。
もし、開通時からあったとすると、実に1世紀を経ていることになる。
橋台は用水の両側に残っている。
時間帯が悪かったせいで、光の当たり方が均等でなく、両側を適正露出で写すのは不可能だった。

用水の下側はコンクリートで埋められてしまっていた。

実は30年前にも一度ここを訪れている。そのときの写真が次だ。
今(2007年)から30年ほど前に撮影した写真。

このときは用水はコンクリートで固められていなかった。
これを見ると橋台は倍くらいの高さがあったことが分かる。

これこそが現役時と何一つ変わらない姿だったのだろう。
残念なことに記録を付けていなかったので、何年に撮影したものか忘れてしまった。30年も経てば人間の記憶なんて薄れてしまう。
しかし、写真は記録としてしっかりと残っている。

川越久保町駅側から撮影したもの。
雑草が繁茂していることから夏場に行ったのだと思う。
このときはこちら側にもレンガ積みが残っているとは思わなかったかも。反対からは撮影していないのだから・・・。
まさか自分の足元にも橋台があるとは。
それにしても無粋なゴミ集積場だ。
川越電鉄のあったころは、鉄道(ましてやSL全盛の時代に電車だぞ)といえば時代の最先端の交通機関。
その気高き橋台がゴミ置き場になるとは思っても見なかっただろう。

ゴミ置き場の脚は優雅なレンガ積みの橋台にボルトで固定されていた。
川越久保町駅側の橋台。こちらは反対側よりかなり小さい。

橋を固定していたものだろうか、ボルトの名残が突き出ている。

角度を変えてもう1枚。

この時代まで残っていたのだから、この先も・・・とは思うが、こんなちっぽけな遺構なんてどうなるか分からない。
この辺りは急激に開発が進むような感じではないが、マンションでも建とうものなら、すぐに消えてしまうだろう。
そう考えると1枚でも多くの写真を残すことが大切だ。私はシャッターを切りまくった。
長い歳月によって風化した橋台。
ところどころ欠けたりしているが、よくぞ残っていたものだ。
大宮駅側にもボルトの軸だけが残されていた。
実際に橋が架かっていたときの様子を見てみたかった。
最後に大宮側から撮影。

この橋台、なぜこれまで残っていたのだろうか。
川越電鉄はほとんどが道路との併用軌道だった。それを考えるとこの遺構が残されていたのは奇跡に近い。
併用軌道は道路工事によって簡単に消滅してしまう。この橋台は道路上にあったのではなく、たまたま少しだけ離れたところにあったのが、幸いしたのだろう。それで時代の移り変わりに飲み込まれずに済んだのだ。
また、ほんとに小さな用水路の橋だったのも理由の一つだろうか。大きな川は改修工事が入るから、すぐに様子が変わってしまう。

とここまで考えて、残されていた理由はそれだけではないように思えてきた。
それはこの両側の家の持ち主が、この古ぼけたレンガ積みの価値を知っていて、あえて残しているのではないだろうかということである。
でなければ用水がコンクリで固められるときに壊してしまうのが普通じゃないだろうか。
引いた写真を見れば分かるように、この部分だけがコンクリート化されずに残されているのだから。
上の写真の生け垣はこうして続いている。
間違いなく67年前までは、ここに電車が走っていたのだ。


67年前、この辺りは農家が点在し、ほとんどか田畑だっただろう。そんなのんびりとした風景の中、ゴトゴトとチンチン電車が走っていたのだろうと思いを馳せた。
この辺りの30年前の風景。
残念ながらどこで撮影したのか全く記憶に無い。
このトラックに書かれている会社名から分からないかと思ったのだが、無理だった。
しかし、フィルムのコマ順からいって、橋台を撮影した直後なので、おそらく橋台よりも川越久保町駅寄りのどこかであるのは間違いない。
地図「2」から撮影

セブンイレブンのある交差点から撮影した。
30年前に訪れたときは、もちろんセブンなどなく、村の商店といった感じの店だったと思う。

軌道跡はこの先の細い道を荒川に向かって突き進む。
地図「3」から撮影

30年前の風景。
もっと拡大した写真には突き当たりに商店が見える。
これが今のセブンイレブンと思われる。当時は未舗装の道だった。

地図「4」より撮影

小さな交差点を越えて、軌道跡はさらに進む。
地図「5」から撮影

荒川の堤防が見えてきた。
地図「6」から撮影

上の写真の道路終点より振り返って撮影した30年前の風景。
道こそ未舗装だが、それほど変わっていない感じだ。
地図「7」から撮影

道はついに行き止まりに。
この先には川が流れている。荒川本流は堤防のさらに先である。
地図「8」から撮影

水門と大きな溜まり。
実はこの流れ、当時の荒川本流なのだ。
つまり、ここで川越電鉄は荒川を渡っていた。
当時の橋はなんと木橋だったという。
軌道は旧堤防を切り通しのように抜けて、ここから対岸に渡っていた。


今はもう当時の面影は何も無い。それもそのはず、荒川は度重なる氾濫を起こし、大改修を受けて現在の直線的な流れに変えられてしまった。
追記:芝地停留所の場所がイマイチ分からなかったのだが、その後の調査で黒須停留所とこの辺りまでの間にあったことが判明した。
理由として、この辺りは川越市に編入されるまでは、古谷村という地域で、その小字に「芝地」という地名があったこと。また、昭和10年(1935)に書かれた「東京の植物を語る」伊藤隼著という文献の中に「【芝地の桜草】 その上流すなわち川越から大宮に通ずる街道が、荒川を横切る辺りの芝地という所にも桜草の自生地がある。」という記述があった。川越から大宮に通ずる街道とは、すなわち旧県道大宮線のことで、そこには平行して川越電鉄が走っていたからである。
ただ、ここだというポイントの特定までは至っていないが、停留所は集落の辺りに作られるはずなので、地図での撮影地No.「2」の辺りが最も有力ではないだろうか。

さて、川越電鉄唯一の遺構である奇跡的に残された橋台を過ぎ、軌道跡は荒川へと突き当たった。国道から離れたことで、開発の波から取り残されて軌道跡が残されていたと言えるだろう。
しかし、この先は荒川の大改修によって広大な河川敷へと変えられてしまい、かつての道すら残っていない。
ここで荒川を渡ることはできないので、回り道して再び国道へと出て上江橋を渡り、対岸に軌道跡を追う。
次回は、さいたま市(旧大宮市)側の探訪だ。
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