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日窒広河原沢軌道跡

訪問日 2008/05/25 同行者:ギルさん          カメラ:Nikon D70・Panasonic FX01

中津川林道から右に折れ八丁隧道方面へ向かう道を進んだ我々。最終目的地の「日窒広河原沢軌道跡」へと向かう。
時間的にきっちり調査するのは難しいが、当たりだけでも付けておきたかった。
この軌道、ほとんど資料が無いらしく、ハッキリしたことが分からない。
中津川の支流、神流川の広河原沢という沢の奥にあった軌道で、日窒工業開発(株)の鉱山で使う坑木と炭の運搬を目的としていたとされる。実際に軌道があったのは昭和10年代後半から20年代前半までだったようで、とても短い期間しか使われなかったらしい。
紹介されている書籍もあるそうなのだが、それを見たことが無い。そんなので果たして見つけることができるのか不安はあったが、とにかく進んだ。
秩父の奥のさらに奥、果たして何らかの遺構を発見できるのだろうか。

※ 右岸・左岸は上流から下流を見て、右手が右岸、左手が左岸。これを間違えると遭難する可能性もあるので注意。

途中にウインチらしき残骸を発見。
何に使っていたのか?
これは今回の軌道とは関係ないだろう。
山は断崖絶壁。
今にも崩れてきそうな感じだ。
実際、雁掛トンネル手前で左折し、ダートの道に入ると、かなりの荒れようだった。
いたるところで崩れている。
鋭い石でタイヤを切ってしまわないように慎重に進んだ。
そして、入渓点に到着。
すると数人の釣り人が上流方向から車で下ってきた。
このグループの中の一人が、この沢を結構上まで行ったことがあるようで、奥へと続く道に関する情報を得ることが出来た。
早速、沢支度をして河原に降りて遡行していくと、一つ目の堰堤が姿を現す。
ここはサクっと越えて奥へと進む。
するといきなり右岸に謎の石積みを発見。
軌道に関係するものだろうか?
そこはあきらかに人間の手が加わったもので、結構な広場になっていた。
なんらかの建物があったことは間違いない。
平場は川床から数メートル高くなっている。
このようにきっちりと積まれている。
一通り平場を調査した後、再び川へと降りる。
二つ目の堰堤は目の前だ。
二つ目の堰堤を越えると右岸に踏み後らしきものが続いていた。
これが奥へと向かう道だろうか?
今回、ここは進まずに渓通しで行った。
そして三つ目の堰堤。
三つ目の堰堤を越えて川を行くと、人工物を発見!
金属製のパイプのようだ。
何に使われたものだろうか?
一般的に森林軌道ではこのようなものは使わない。やはり鉱山関係のものだろう。
注意して辺りを見回すと、他にも沢山落ちている。
上流から流されてきたのか、この付近で使用されたのか。

どちらにしても何かがあったことは間違いない。
そのまま川を遡行していくと、8mほどの滝に行く手を阻まれる。
ネットで見つけた情報では、どうやら斜面の上に道があるらしい。
釣り人に聞くと右岸を数十メートルほど登ったところに道があるという。
しかし、ギルさんの持ってきたネットの資料では左岸を行っている感じなのだ。
地図が間違っているのか? と思ったが、そうじゃなく私たちが勘違いしていた。
迂闊にも私自身は、よく下調べしてこなかった。なんとなく頭に残る記憶を辿ってみるが、イマイチ思い浮かばない。
とりあえずガレを直登して、道に出てみた。
確かにずっと上流へと続いているようである。


そして何気なく下を見た私。
「レイルだ!」
そこには転がり落ちたような形で2本のレイルが引っかかっていた。
この落ちているレイルはネットで見た覚えがある。
確かにここに軌道が存在したのだ。
ただ、この場所に敷かれていたのかはハッキリとした確証は無い。
軌道はもっと奥の二又に敷かれていたという情報だったからだ。
その落ちたレイルのすぐ先を見た我々は先に進むのを躊躇した。
奥に朽ちた桟橋、そして手前は完全に道が無い。おそらくここにも桟橋があったのだろうが、今では完全に無くなっている。
一応トラロープは掛かっているが、かなりデンジャラス!
持っていた地図(ネット上にアップされていたものをプリントアウトしたもの)では、左岸を行くような感じで線が引かれていた。だとするとこのルートは間違いだ。(実際はこのルートで良かった。参考にする場合はアップされている文字情報も含めて丸ごと持っていかなくてはならないと反省)
実はそのサイトに、この桟橋の写真があったのだが、この時点では覚えていなかった。
時間的には13時30分を回っている。ここから軌道があったとされる地点までは、まだまだあると思われた。
ここを突破して違っていたら見当違いの側を行ってしまい、再探索の時間が無くなる。

朽ちた桟橋のアップ。
かなりキている。
ここを進むのは命を捨てることになるかもしれない。
一応トラロープは掛かっているが、いつ誰が掛けたかもしれないロープに頼るのは無謀すぎる。

と、このときは全然気がつかなかったのだが、このアップの写真を切り出していたら・・・
「あれ? もしかして・・・」
これってレイル!?
とっても怪しいぞ。
しかし、このアングルでしか撮ってないから確認できない。
単なるH鋼かもしれない。レイルにしては幅がありすぎる気もするが・・・。
次回行ったら絶対に確認しなくては。
しかし、2つ上の写真に丸太が写っているのが分かるだろうか。
実はこれ、あきらかに新しい桟橋を掛けるための材料だ。もし新しい桟橋を掛けられたら、このレイルは落とされてしまうかもしれない。
ウーン、まずいぞ。あまり猶予は無いのか・・・。

とりあえず右岸はやめて、左岸を調べてみた。
涸れ沢を直登して上に道らしきものがないか見てみたのだが、それらしいものは無い。やはりプリントアウトした図は違っているようである。(地図が違っているのではなくて、私たちが思い込みで別の図を見ていた。現地ではなかなか冷静になれず、間違いを犯しやすいことを学習した)
時間も押してきたので残念だが上流部の調査は次回に持ち越しして、下流部の調査を行う
右岸についた道伝いに下流へと向かうと、一斗缶やらオイルのポリタンク、ビール瓶が転がっている。
ここに飯場があったようだ。
道らしきものはさらに下流に続いている。
これが単なる道なのか、それとも軌道跡なのかは分からない。
軌道跡にしてはアップダウンがありすぎる気もする。
しかし、はるか奥の上流部にだけ軌道があったというのも解せない。
上部で切り出した原木をどうやって運んだのか。
まさか人力で担いで運んだわけではあるまい。
他に考えられるのは索道だが、索道は急斜面や対岸へと渡すのが普通だろう。なので、これは無いと思う。
他には川を流すという手もあるが、山岳渓流である広河原沢は落ち込みや滝があるのでこれも無理。
やはり軌道でここまで運んだと考えるのが普通だろう。
そして、軌道が下流まで来ていたと考える理由がもうひとつある。それは、この堰堤付近にエンジンが落ちているというのだ。
エンジンしかないので、それが機関車のものとは言い切れないが、いずれにしろエンジンを奥まで運び上げるのは人力では不可能なのではないか?
とするとやはり軌道がこの堰堤付近からあった可能性が高いと私は思うのだが。
カゴメトマトジュースの缶。
付近を調べると石垣があった。
そして、索道の盤台を発見。
コンクリートで固められた盤台は長い年月を経て、苔むしていた。
その側面にはU字に曲げた鉄材と、そこに丸太が通されている。
これはいったいなんだろうか。
U字鋼のアップ。
盤台の上面。
太いワイヤーが放置されている。
ここから左岸の林道方向へと原木を運んでいたようだ。
ここまで人力で運んで、ここから索道・・・。やはり変だ。
ここまで軌道で運び、ここから林道へ索道と考えるのが普通だが・・・。
人も通わぬ秩父の奥。昭和20年前後といえば今ほど交通は発達しておらず、それこそ秘境と言っても言い過ぎではない場所。
そんな山奥にひっそりと存在した「日窒広河原沢軌道」
いったいなぜこんな山奥から原木を切り出さねばならなかったのだろうか。そこでしか伐れない木があったとも思えないのだが。
今回は残念ながら軌道まで到達できなかったが、様子も分かったことだし次回は必ず見つけられると確信している。

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