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入川森林軌道(深部軌道・上部軌道) 別名:東京大学演習林軌道 <1>  

 1.7(完結)

訪問日 2008/05/04 同行者:ギルさん、モーちゃん   徒歩      カメラ:Nikon D70

埼玉県を流れる大河荒川。その源流部を入川と言う。その入川に沿って昭和45年まで使われた森林軌道が存在した。
現在の国道140号、江戸時代に作られた栃本関所の上流、入川と滝川との出合(合流点)に川又という集落がある。軌道はそこから出発して入川沿いの奥深くへと作られた。
赤沢谷の出合に立っている看板によると、昭和23年(1948)から昭和45年(1970)の間に運行されていたようだ。しかし、ウィキペディアの記述では太平洋戦争以前から存在し、最初は馬でトロッコを引いていたとされ、内燃機関(ガソリン機関車)が導入されたのが戦後となっている。したがって看板の昭和23年というのは、それが導入された年なのかもしれない。
いずれにしろ現役時代の資料・写真等がほとんど知られていない謎の森林軌道なのである。
2008/05/15追記「全国森林鉄道」JTBキャンブックスに、現役時代の写真や様々な解説が載っていた。それによっていろいろと新たな事実が判明した。
本編も判明したところをいくつか改訂する。
追記ここまで


以下、ウィキペディアより引用した概要を記載する。

路線データ
  • 軌間:762mm
  • 動力:馬→内燃(ガソリン、ディーゼル)
  • 入川線:川又八間橋 - 赤沢出合 5.6km
  • 滝川線:川又八間橋 - 豆焼沢 5.3km
  • 赤沢上部軌道:赤沢出合 - モミ谷 2.4km
  • 入川線の赤沢出合とは簡易索道で結ばれていた。

    その他、関連する路線として、関東水電(東京電力の前身のひとつ)の工事用軌道(二瀬〜川又八間橋)がある。

歴史

  • 1916年(大正5年):東京帝国大学(現東京大学)が演習林を開設。
  • 1921年(大正10年):関東水電が、発電所建設資材運搬用の軌道を二瀬〜川又八間橋に敷設。動力は馬を使用。
  • 1922年(大正11年):東京帝国大学が、発電所建設資材運搬用の軌道に接続する林道の建設を開始。
  • 1929年(昭和4年):林道の一部に軌道を敷設する。後の入川線の一部2.6km。尚、この路線は、当時東京帝国大学演習林の林産物を払い下げを受けていた、関東木材合名会社が敷設する。
  • 1930年(昭和5年):関東水電の発電所建設資材運搬用の軌道が、奥秩運輸組合に譲渡される。
  • 1932年(昭和7年):滝川線の敷設開始。
  • 1936年(昭和11年):東京帝国大学の手で、入川線の残り3.0km を敷設。
  • 1939年(昭和14年):東京帝国大学が関東木材敷設の軌道を買収。
  • 1948年(昭和23年):滝川線全線開通。
  • 1951年(昭和26年):赤沢上部軌道開通。
  • 1953年(昭和28年)頃:関東木材が入札から撤退、秩父木材工業が独占となる。奥秩運輸組合は二瀬〜川又八間橋を秩父木材工業に譲渡。
  • 1957年(昭和32年):秩父木材工業が西武鉄道傘下の復興社に併合される。
  • 1961年(昭和36年):復興社は西武建設に吸収される。以降、東京大学演習林軌道は実質的に西武建設の運営となる。
  • 1961年(昭和36年):二瀬ダム建設により、二瀬〜川又八間橋廃止。
  • 1969年(昭和44年):全線廃止。
  • 1982年(昭和57年):赤沢出合付近の発電所取水口工事の資材運搬の為に、廃止された東京大学演習林軌道を利用することが決定。発電所取水口工事は三国建設が請け負うこととなる。
  • 1983年(昭和58年):三国建設による軌道改修工事完成。運用開始。
  • 1984年(昭和59年):運用終了。
この軌道の存在は私が中学生だった頃(1970年代後半)、すでに知っていた。しかし、旅客鉄道も無い秩父の山奥まで行く手段は自転車しかなく、行こうと思っても簡単に行けるものではなかった。その後バイクの免許を取得した頃には熱も冷めていたので、21世紀になるまでその存在を忘れていたのである。やがて渓流釣りを始めて荒川源流部に釣りに行ったとき(2001年)に、初めて実物を見ることができた。
入川森林軌道跡は十文字峠へと向かう登山道の一部として使われていて、赤沢谷出合までは軌道跡を歩いていくのは有名である。
かつて、その登山道を辿り赤沢谷出合に到着後、登山道を急登したところで再び軌道跡が現れたときは、とても驚いたものである。

今回はその入川森林軌道跡と上部軌道の終点までの探索を行う。入川沿いの森林軌道を紹介したサイトは多々あるが、上部軌道に関しては1つ、2つのサイトでしか紹介されていない。また、赤沢谷出合より奥の入川本流沿いにも軌道が延びていたようなので、今回はそれも出来る限り探索してみる予定である。この赤沢谷より奥の軌道については「あった」とされているサイトは見かけたが、実際に足を踏み入れて紹介しているところはネット上には無いようだ。廃探倶楽部がその様子を初めて公開することになるはずである。この赤沢谷より奥の軌道を「深部軌道」と勝手に命名する。

今回の探索は上部軌道終点まで片道約7km、往復14kmほどの歩き。赤沢谷出合まではハイキング道並みに整備はされているが、一部土砂崩れがある。上部軌道にいたってはほとんど歩く人も無く、かなり荒れていることが予想された。源流釣りでこういうところを歩くのには慣れた3人だが、果たして終点まで行くことができるのか。
写真は全てを記録するつもりで撮りまくってきた。その枚数、およそ600枚以上。全てを載せることは出来ないが、出来る限り紹介したい。
では、入川森林軌道跡の全容、じっくりとご覧いただこう。

注意:入川森林軌道、上部軌道、ならびに深部軌道は落石、滑落等、重大な事故にあう危険があります。
    もちろん携帯電話は圏外です。当サイトの情報をもとに行かれて事故に会いましても責任は持てません。
まずは入川森林軌道がどの辺りにあったのかをご覧頂く。
埼玉県秩父の奥も奥、山梨県との県境に近い場所。荒川源流部に作られた二瀬ダム上流に存在した。
 
拡大図を示すと、このように延びていた。
基点は川又地区で、現在は小さな集落である。
国道140号線は最近になって雁坂トンネルが開通し車で山梨まで行けるようになったが、何十年もの間徒歩でしか抜けられない未完成の国道だったのである。
その国道140号から分かれて荒川沿いに行くと、入川渓流観光釣り場の案内板が出てくる。車がすれ違うのもままならない細い道を左に折れていくが、ここはすでに森林軌道跡である。
上図で上部軌道の線が始まるところが、支流の赤沢谷出合で、この赤沢谷出合まで紹介しているサイトはとても多い。廃線マニアには割りとメジャーなものである。そして、そこから赤沢谷に沿って延びていたのが「上部軌道」である。こちらを紹介しているサイトはほとんど無い。
そして、赤沢谷を渡った先、それが初公開の「深部軌道」である。
 
川又地区

国道140号と分かれてすぐ、木造の古い建物がある。
軌道と関係があるかどうかは不明だが、間違いなく軌道が現役だった頃からある建物だろう。
崖の上に鉄骨の基礎を組み、建てられている。

上に見える赤い橋は、国道140号である。
森林軌道はこの辺りが基点だったのだろうか。
川又地区

上の写真で2件目の建物のアップ。
屋根の上にはレールが乗せられている。
川又地区

3件目の建物。
こちらは民家のようだ。
林鉄と関係あるかは不明だが、いずれにしろ古い!
川又地区から奥へと進む。
入川渓流観光釣り場より下流を望む。

観光釣り場には車が止められなかったので、下にある駐車スペースに止めて、そこから先は一般車両は進入禁止。徒歩で進む。
往復14kmに及ぶ探索のスタートである。
9:20
観光釣り場の林道ゲートにある案内図

現在地からは赤沢谷まで、ゆるやかな登りが続く。
林鉄ならではである。
一つ目のゲートを抜けたところに、十文字峠の標識あり
入川に作られた観光釣り場を左下に見ながら、林道を行く。

この辺りはほとんど遺構は見当たらないが、軌道はここを通っていた。
その両側には石垣が積まれている。

石垣は、一部最近になって補修されているようだが、ほとんどが当時のままである。
まず最初に目にする関連物は軌道のレールを再利用した、ガードレール。

この先、何箇所かで目にすることが出来る。
森林軌道のレールはとても細い。
やがてゲートが出現。
しかし、これは車両通行止めのもので、歩行者は関係なく進入可能である。
谷側の石垣
レールを再利用したものは、頻繁に現れる。
林道を横切る沢に掛かっている橋の橋台部分。
橋は架け替えられているが、石積の橋台は当時のままである。
観光釣り場から1kmほど進むと、矢竹沢を渡る橋に着き、右手に小屋が見えてくる。
ここは演習林に上がっていくモノレールの車両置き場のようだ。

写真を撮って何気なく通り過ぎようとしたとき、橋の中ほどにいたモーちゃんが
「レールみたいのが見えますよ!」と叫んだ。
驚いて木々の間から見ると、確かにレールが見える。
そして小屋の裏手を見ると谷に沿って軌道跡らしきものが続いていた。

ギルさんの後に続いて進んでみると・・・
なんと矢竹沢に掛かった橋の跡だ。
ネット上でヒットした情報で1サイトだけ薄暗い木々の間に見える橋の残骸の写真を載せているところがあったのだが、それがどの地点なのかよく確認していなかった。実は矢竹沢の橋だったのだ。
橋自体は矢竹沢の増水によって押し流され、残ってはいない。
レールだけが宙に浮いた状態だ。
下流(川又地区)側の橋台。
石積とコンクリで作られているようだ。
対する上流(赤沢谷)側は橋台は無く、自然の岩を利用していて、石垣で補強してあるようだ。
宙に浮いたレール。
支えを失ってもなお、使命を果たそうとしてるのか。
山は新緑に萌え、現役時代となんら変わらないようだが、確実に時は流れていく。
上流側の石垣。
廃止後40年を経ても石垣は全く崩れていない。
下流方向を撮影。

上流側の橋台部。
比較的広く平場が取られている。
ここからカーブを描きレールが延びている。


2008/06/03 追記

全国森林鉄道(JTB)の写真によると、ここには小屋があったようだ。
下流方向を振り返って撮影。
対岸の石垣が分かる。
上流に向かって撮影。
一部は土砂によって埋まっていた。

矢竹沢に掛かる橋の残骸を発見できたのはモーちゃんのおかげである。
軌道跡をそのまま林道に転用したとばかり思い込んでいた私とギルさんでは発見することは出来なかった。
考えてみれば林道の矢竹沢橋は、軌道跡の他の小さな橋と比べて、群を抜いて立派だった。

普通、森林軌道では橋を架けるとしても出来るだけ短い距離で川を渡るように軌道を敷設する。
工事技術が進んだ現代からしてみれば、林道のこの程度の橋を作るのは簡単なことだ。しかし、技術も資材も無かった頃に森林軌道は作られている。
であれば沢を渡る場合は出来るだけ沢を上流に巻いて、橋を最短の長さで掛けるだろう。
それに気が付かなかったのは、まだまだ観察力が欠けていると言わざるを得ない。
我々はこの思いがけない発見に喜んだ。
さて、林道の橋を渡ったところで、再び軌道が林道へと戻ってくる。
しかし、ここで林道上へと戻るにはあまりにカーブが急すぎる。
いくら森林軌道とはいえ、このカーブを曲がるのは無理がありそうだ。
ギルさんとも
「これ、いくらなんでも急すぎだよね」と話していたのだ。
そして、無理があると思った理由はもう一つある。
それはその先の林道があまりにも勾配がきつかったこと。
森林軌道の機関車ではこの坂は登れないだろう。
しかし、先を急いでいた我々は、このときはよく調べずに進んでしまった。
林道は軌道上に盛り土でもしたのだろうと考えたのである。

真実を発見したのは帰り道のことであった。
これは帰り道に撮影したものだが、話の流れから先に紹介する。

往路、何か腑に落ちないものを感じていた我々は、辺りをくまなく捜索してみた。
すると林道の谷側に不自然な平場が続いているのを発見。
よく見てみると半ば埋もれたレールが顔を出しているのを発見したのだ。
埋もれた土砂の中からレールが顔を出している。
この区間、軌道は林道上を通っていたのではなく、林道を横断してカーブを描きながら谷側の一段低いところを通っていたのだ。

2人が立っている辺りが林道歩きから左に折れて、軌道跡へと踏み込む地点である。
ここから軌道跡への坂も軌道としては無理な急坂となって数メートル下っている。


2008/05/15追記
「全国森林鉄道」によると、この林道の橋も軌道だった時期があった。
旧矢竹沢橋は途中で立派なコンクリート橋脚のこの橋に架け替えられたようだ。
しかし、真っ直ぐ進むのではなく、この橋を渡ったところで矢印の軌道跡へと進んでいたのだろう。
さあ、いよいよ軌道跡は林道と分かれて入川沿いを進んでいく。
この先はあちこちのサイトでも紹介されているとおり、レールや枕木といった遺構が数多く残っている区間である。
果たしてどんな姿を見せてくれるのだろうか。

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