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頸城鉄道  訪問日 1979(昭和54)年8月8日  同行者:伊藤弘  
                                  カメラ:モノクロ=Nikomat FTn Nikkor 50mm F1.4 & 135mm F2.8
                                       カラー=OLYMPUS OM-2 Zuiko 50mm F1.4 & 135mm F3.5

頸城(くびき)鉄道は、かつて新潟県直江津市の国鉄信越本線黒井駅に隣接した新黒井駅と上越市浦川原駅を結んでいた、軌間762mmの軽便鉄道であった。
まず1914年(大正3年)10月1日 新黒井 - 下保倉間 (13.8km) が開通。 そして、1916年(大正5年)5月5日 下保倉 - 浦川原間 (1.2km)の 開通により全線の15kmが開通した。
しかし、例によって地方小私鉄の定められた運命か、徐々に乗客数が減り続けて、ついに1968年(昭和43年)10月1日 新黒井 - 百間町間 (5.4km)、飯室 - 浦川原間 (3.7km) の両端の部分が廃止された。これによって頸城鉄道は国鉄との連絡を持たない孤立した鉄道となってしまう。
そして1971年(昭和46年)5月2日 残された百間町 - 飯室間 (5.9km)を廃止し、57年の歴史に終止符をうったのである。

会社は現在、頸城自動車として存続している。

●駅データ
新黒井駅(しんくろい) - 北四ツ屋駅(きたよつや) - 百間町駅(ひゃくけんまち) - 鵜之木駅(うのき) - 明治村駅(めいじむら) - 花ヶ崎駅(はながさき) - 大池駅(おおいけ) - 飯室駅(いいむろ) - 下保倉駅(しもほくら) - 浦川原駅(うらがわら)

尾小屋鉄道廃線跡、立山砂防軌道、東洋活性白土専用線と訪問してきた北陸ナローゲージをめぐる旅は、ここ頸城鉄道で終わりを迎えた。
車の免許も無い高校1年生では、15kmもある頸城鉄道を全線辿るのは不可能だった。しかし今考えれば、この旅で訪れた場所は全ての地で丸1日を取ってでも詳細に記録しておくべきだったと、今では後悔している。
このときはまた来ればいいさと思っていたのかもしれない。まだ子供だった高校生では、「時代はどんどん移り変わって、あっというまに失われてしまう物もある」ということまで気がつかなかったのかもしれない。
あの夏の日からすでに30年が過ぎてしまった。ここに写ってる風景は今ではどうなっているのだろう。また訪れてみたいと思いつつも、なかなかその機会が巡ってこない。そうしているうちにさらに時間は流れていく・・・。

●頸城自動車WebSite
会社のサイト内に鉄道資料のページがあり、貴重な資料が公開されている→ 鉄道資料



▲頸城鉄道跡の航空写真
昭和50年度(1975)撮影
5枚の航空写真をつなげてみた。
こんなのが机の前にいながらにして探し出せるのだから素晴らしい時代になったものだ。
ただ、残念ながら明治村駅までしか写っていなかった。その先は撮影コースが外れてしまったようだ。
倶楽部員のギルさんのおかげで明治村から終点浦川原までの航空写真も見つけることができた。

※写真をクリックすると、別窓で大きな写真を表示(約680KB)

このとき辿ったのは、新黒井駅跡から百間町駅跡まで。
新黒井駅跡に着いたのは、東洋活性白土を訪れた後だから、午後の2時くらいだったろうか。

新黒井駅付近
▲昭和50年度の航空写真 新黒井駅付近
私たちが訪れる4年ほど前に撮られたものだ
頸城鉄道の新黒井駅駅舎が写っている。
このときはまだ廃線跡の道路工事は始まっていなかったようで、廃線跡もくっきりと写っている。
新黒井駅を出て緩いカーブを描いて、百間町までの真っ直ぐな線路を行く。

※マウスを乗せると線路跡を表示


▲航空写真に示されたNo.1から撮影

北陸撮影旅行もいよいよ最終日。私たちは信越本線の黒井駅から出ていた頸城鉄道の廃線跡へやってきた。
国鉄黒井駅に降り立つと、頸城鉄道の新黒井駅の駅舎が出迎えてくれた。
この威風堂々とした駅舎、
スタンダード石油直江津工場の外人宿舎(通称・異人屋敷)の1棟を譲り受けて移築したそうで、国鉄の黒井駅よりも立派だったそうである。

▲航空写真に示されたNo.2から撮影

頸城鉄道 新黒井駅構内。
駅舎以外が無くなってしまった今では、とても広々としている。
レールは全て撤去されて、駅舎だけがポツンと残されていた。
この新黒井−百間町間は全面廃止前の1968年に廃止になっている。これによって頸城鉄道は国鉄との連絡のない鉄道となってしまった。
この辺りには車庫等の建物があったようだ。

▲駅舎に近寄ってみる。
所々窓ガラスが割れ廃墟のようになっている。こちらがホーム側。
ここから小さな車両が発着していた。

▲逆光で黒潰れしてしまったのを無理やり修正。
まるで明治時代に撮影した写真のようにも見える。
朽ちようとしている二階の看板に「頸城鉄道 浦川原方面」の文字が読み取れる。
左の軒下がホーム。奥から手前に線路は延びていた。

灯篭や墓石らしきものが置かれている。石材屋が使っていたのだろうか。

航空写真に示されたNo.3から撮影

直ぐ近くにガーター橋が残されていた。
この橋は平成13年まで残っていたらしい。
後ろに見えるのは国鉄の電気機関車。

レールは撤去されているが、枕木はまだ残っている。その先は木が生い茂って窺うことが出来ない。
新黒井駅の廃止後11年、猛烈なヤブに育っていた。






















航空写真に示されたNo.4から撮影

朽ちた枕木に注意しながらガーター橋を渡り、
猛烈なヤブこぎの後、開けた場所に抜け出した。

この後、徒歩で機関庫のあった百間町(ひゃくけんまち)までの廃線跡を辿ってみた。

百間町までは5.4km。

8月の強烈な日差しの下、重たいアルミのカメラバッグを肩からさげ、着替え等の荷物の入ったリュックを背負って良く歩いたものである。























廃止後11年を経て、線路跡は立派な道路に生まれ変わろうとしていた。
来るのが少し遅かったようである。
これでは面影も何もない。
北四ツ谷駅付近
▲北四ツ屋駅付近
田圃の中を真っ直ぐに進んだ頸城鉄道は、二つ目の駅、北四ツ屋へと到着。
ここは田圃の中にぽつんとある集落だ。

※マウスを乗せると線路跡を表示























航空写真で示すNo.5から撮影

北四ツ屋駅跡。駅舎が残されていた。
このとき、これが駅だと知っていたのだろうか。
これ1枚しか撮影していないのが残念だ。
























この辺りは道路工事の手がまだ及んでいない。
果てしなく広がる水田の真ん中を進んでいく。
百間町駅付近
▲百間町駅付近
新黒井駅を出発して真っ直ぐな田圃の中の廃線跡を歩いて、ようやく百間町駅の跡にたどり着いた。
ここは1971年に廃線になるまで使われていた駅なので、新黒井駅や北四ツ屋駅よりも遺構が残っていた。
それに頸城鉄道の本社もある場所だ。
また立派な機関庫もあり、頸城鉄道の車両たちはここで整備されていた。
二棟あった機関庫のうち一棟は壊されてしまったようだが、一棟は2009年現在でも残されている。
訪問時、この機関庫内にドイツのコッペル社製の小さなSLが仕舞われていたのだろうか?


▲NO.6から撮影

ようやく百間町駅に到着した。
ここは廃止後8年が過ぎているが、まだ原型をとどめている。

今はもう使われることも無くなったターンテーブルが草に埋もれていた。

▲No.7から撮影

百間町の機関庫。かなり大きな建物だ。
中は見なかったと思うのだが、何か車両が入っていたのだろうか。この機関庫は21世紀の今でも保存されている。

線路敷き跡を望む。
これはホンダの軽自動車N360だったか? 時代を感じさせる。
百間町駅の辺りは水田が広がり、豊かな米作地帯であろうことをうかがわせる。

百間町駅。
左手方向が新黒井駅方面だ。後方の立派な建物は頸城鉄道の本社である。
かつて列車に乗るために人々が立っていただろうホームは、今ではバスの乗客のための自転車置き場となっていた。
本社社屋は現在もあるようだ。

▲『落とせ! カミナリ』 とてもインパクトあるポスター(笑)
この時代だと小林亜星さんは寺内貫太郎一家の時代だろうか?
使われなくなった駅舎らしく、ガラス窓は塞がれていた。
開業から57年の間、いったいどれだけの人がこの駅を利用したのだろうか。

▲NO.8から撮影

かつての線路から撮影
柱の意匠も凝っている。
自転車も時代を物語るし、裸電球もいい感じだ。バイクはホンダ DAXだろうか。私が初めて乗らせてもらったバイクがDAXだったなぁ。
フィルムがもう無かったのか、カラーではこの2枚しか撮っていなかった・・・。
デジタルカメラがあれば、それこそ目に付いたもの全てを記録したのだろうが、36コマしか撮れないフィルムでは、もったいなくて・・・。

▲No.9から撮影

百間町駅入り口。
往時のままを伝えるたたずまい。
誰もいない寂しげな駅。今はもう列車の音は聞こえて来ない・・・。
この後、信越本線の黒井駅まで戻ったのだが、どうやって戻ったのかまるで記憶に無い。
再び駅までの道を歩いたのか、それともバスに乗ったのか・・・。同行した伊藤君なら覚えているだろうか。
彼と最後に会ったのはいつだったか・・・。
高校時代は付き合いがあったが、鉄道への興味が次第に薄れて、バイクや車などへと趣味が変わってしまい、疎遠になってしまった。
また会って話がしたいものである。
頸城鉄道廃線跡を訪れてから30年の歳月が流れた。頸城鉄道が廃止になってから8年後だったわけだが、やはり現役時代を見てみたかった。廃止されたのは私が8歳ごろだから、これはさすがに無理な願いだったろう。
21世紀に入りインターネットによって沢山の情報を簡単に知ることができるようになった。そして、ある日ビックリするようなサイトを見つけたのだ。
現在は見ることはできなくなっているのだが、そこには頸城鉄道の車両たちを個人で買い取って、神戸の六甲山の山中に保存していたというものだった。ドイツのコッペル社製のSLは頸城鉄道が保存していたのは知っていたが、まさか他の車両を保存していた人がいたとは全然知らなかった。
現在それらの車両は里帰りして、この百間町の機関庫に保存されているそうである。そして修理されて再び走り出すのを待っているのだという。
高校生の頃にはかなわなかった夢が、かなうときが来るかもしれない。

▼訪れることのできなかった百間町以遠は航空写真で線路跡を紹介したい。

▲明治村駅〜浦川原駅までの航空写真(1975年度撮影)
※写真をクリックで別窓拡大(730KB)
頸城鉄道は川に沿ってできた平地に敷設されていたことがわかる。
現在は道路に転用されてしまったところもあるので、残っている部分はわずかだろう。
下保倉駅から終点浦川原の区間は、この航空写真ではハッキリと判別できない。
最初は道路になっているのかと思ったが(赤ルート)、調べていくと浦川原駅のホームは北側にあり、道路とは別だったようだ。
また、現在の「ほくほく線」の線路が頸城鉄道の浦川原駅から同じルートを行っているという資料もあり、そうなると黄色のルートが正解ではないだろうか。
他にも「切り通しとなっていた部分もあった」と資料にあるので、それは学校のある丘の部分しか考えられない。
やはり黄色ルートが正解だろう。ただ、下保倉駅の付近にはなんの痕跡も残っていないようにも見える。
廃止後数年でこんなに綺麗になくなってしまうことがあるだろうか。
この部分は国土地理院発行の旧版地図を入手すれば、すぐに解決することなのだが・・・。


ギルさんの協力で正確なルートが判明した。
廃線跡は飯室駅から東はすべて畑の中を通っていた。これは1967年度の航空写真で判明。
モノクロで解像度も低い写真だったが、頸城鉄道現役の時代のものなので畑の中に続くのが線路敷きだと特定できた。
廃止後数年で線路敷きは畑へと姿を変えていたのだ。これでは航空写真で痕跡を探しても無駄だ。
しかし、よく目を凝らしてみると、線路敷きだった部分の畑の色が違っていたり、なんとなく分かる気がする。
鵜之木駅付近
▲鵜之木駅
※マウスを乗せると線路跡を表示

これ以降の駅の場所は実際に行っていないので、あくまで推定

明治村駅付近
▲明治村駅
※マウスを乗せると線路跡を表示
花ヶ先駅付近
▲花ケ崎駅
※マウスを乗せると線路跡を表示
大池駅付近
▲大池駅
※マウスを乗せると線路跡を表示
飯室駅付近
▲飯室駅
※マウスを乗せると線路跡を表示

ここ飯室駅は1968年に飯室-浦川原間が廃止になってからは、1971年の全廃までの終点駅だった。
下保倉駅付近
▲下保倉駅
※マウスを乗せると線路跡を表示

ここから浦川原までの区間がハッキリと分からない部分だ。
写真を見ると上の点線が正解かも・・・と思うのだが、畑の中に全く痕跡が無い。
うっすらと畑の色が違うような気もするが、錯覚だろうか。
それと、横切る畦道の色もその部分だけ違っているような感じもする。
なにより、道路に沿っていたとすると、浦川原駅付近のルートに無理が生じるのだ。


この下保倉駅から終点の浦川原へは、思ったとおりうっすらと畑や畦道の色が変わっているところを通っていた。
この先は小学校の北側を切り通しで抜けて、現在の「ほくほく線」の線路と同じルートで浦川原へと向かっている。
浦川原駅付近
▲浦川原駅
※マウスを乗せると線路跡を表示

1968年までの終点だった駅である。
この浦川原駅の駅舎は現在(2009年)でも残っていて、東頚バス浦川原営業所として使用されている。
多少は改装されているが、基本的に開業時のままというのは驚きである。あと数年で100歳だ。
ところで、この付近の路線上には、現在は「ほくほく線」という鉄道が走っている。
首都圏から北陸に行くには、この「ほくほく線」を走っている特急を使うのが一般的だ。
私も何度か仕事で利用しているが、残念ながら浦川原で途中下車したことはない。
しかし、北陸新幹線ができてしまうと、ここを通ることもなくなってしまいそうである。

さて、この辺りの廃線跡の件、
手前の下保倉駅からのルートだが、写真中央より下の立派な舗装道路に沿っていたのかと最初は思った。
しかし、資料によると赤のルートが正しいようである。
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